もう一度、『ベートーベンウイルス』…はじまりの交響曲2

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なし もう一度、『ベートーベンウイルス』…はじまりの交響曲2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 .2 .3 | 投稿日時 2013/5/28 21:57 | 最終変更
hiroko  レギュラー   投稿数: 53

ミュンヘン



マエがミュンヘンに到着したのは、本格的な冬の到来と同じくしてだった。

寒いことはソクランも同じだ。

マエにとってはむしろ、ミュンヘンは気分の良い土地である。

ミュンヘンはヨーロッパの文化の中心都市のひとつであり、ヨハン・シュトラウスを始め、名だたる作曲家を生んだ場所だ。

歴史的な建物に身をおくだけで心が落ち着く。

「ソクランのわずらわしさが払拭されるようだ。」

強がり交じりだがそんな言葉も出てくる。

そう言っても、残した市響の行く末や、ルミの手術、マウスフィルの団員がまったく気にならないはずはなかった。

だが、離れることで何かが変わる気がした。

彼らとの関係、自分のこころ。

それには、距離や時間が必要だった。  



マエを空港に出迎えたのは、背の高い痩せた真面目そうな男だった。

男はミュンヘンフィルの事務局のラドヴィックと名乗った。

30歳台のその男は、マエの後ろをひょこひょこと歩いた。

マエは180cmとヨーロッパではさほど高い身長ではないが、堂々と歩いていく。マエとラドヴィックの様子はまるで、王様とその従者のようだった。



マエの希望で、翌日にはミュンヘンフィルとの顔合わせがあった。

マエは想像以上の緊張感のなかで迎えられた。

力のある指揮者が迎えられると、団員はみっちり絞られる。団員は気が重いものだ。

だが、ソクランならいざ知らず、名門オケでは今までも名だたる指揮者を招いてきている。こんなあらかさまな態度はマエには驚きだった。

オケにしてみたら、どんなに絞られても評価が上がるのだから、いくら気が重くても、表にはださないものだ。

 


 『そんなに、わたしは威圧的なのか?』

さすがのマエもいぶかしく思った。

だが、その答えはラドヴィックから簡単にもたらされた。

申し訳なさそうに…

『オーケストラキラー』

マエの噂は伝わっていた。今までのオケとのいきさつも知られているらしい。

マエはアジアの指揮者が常任になることを受け入れがたい差別意識が少しはあるのかもしれないとも思った。

特に名門オケの団員にとって『毎回オーディションされ、退団させられるかもしれない』とは到底プライドが許さないだろう。 

今はマエが言い出してはいない。だが

『公演、練習すべてがオーディション』というのが以前からのマエの考えである。

 


 団員は動揺していた。

このての情報はすぐ伝わり、動揺する様子はミュンヘンでもソクランでも同じか…とマエはすこしあきれた。

マエは帰り道、ミュンヘンの大通りを歩きながらふと、ルミの顔が浮かんだ。

『ルミ。お前なら、こんなときわたしになんと言うんだろうな。』

ルミは最初にプロジェクトオケを立ち上げた時から、マエに向かって言いたいことは言ってきた。

臆することはなかった。

間違えたなら間違っていると。面と向かって文句も言った。

迷うときは、そのまま前に進めと言った。

市長と、体制と争った時、逃げるなと。

争いに疲れた時には、『もう休んで』とも…

マエがミュンヘンへ発つ少し前のルミの言葉。

「離れていても、先生の言葉はわかる」

いつしか、自分にもルミの言いそうなことが、マエにはわかる気がしてきていた。



翌日。

ラドヴィックが心配そうにマエの部屋に入ってきた。

ミュンヘンフィルにとって、団員たちの雰囲気がおかしいことが気になるのだろう。

せっかく呼んだ実力ある指揮者との関係がうまくいかないのは避けたい。オケの評価をあげるためにせっかく講じた起爆剤なのだ。

マエはラドヴィックが入ってきてもずっと楽譜に目を落としたままだ。

ラドヴィックは恐る恐るマエに声をかけた。

「先生…あの…」

マエは急に顔をあげるとラドヴィックに指示した。

「団員、皆集めてください。

練習の前に話があります。」



練習室に集められた団員は戦々恐々としていた。

例のオーディションがさっそく行われるのだろうか…

マエは指揮台に上がった。

「わたしは実力が全てだと信じています。

皆さんにどう思われようと、毎回の練習、公演全てがオーディションだというのは以前からのわたしの方針です。

わたしは実力以外を評価しません。

わたしが思うレベルに達していない方には抜けていただきます。」

団員たちは、「やっぱり」と言う表情を浮かべた。

ざわめきが起こった。

マエはそれにかまわず、一機にしゃべり続けた。

「ですが…」

ここで、急にマエは言葉を切った。

かけていたリーディンググラスをはずして、団員ひとりひとりの顔を見渡した。

「わたしはここに約束します。

皆さんが諦めない限り、皆さんが聴けと言う限り

わたしは皆さんの演奏を聴きます。

あなたがたが諦めるまで、わたしが諦めることはありません。」

団員は驚いて顔をあげた。こんな言葉がもたらされるとは思っていなかった。

この新しい指揮者に『諦めるな』と言われているのだ。

いつしか自分たちで自分たちを閉じ込めていた。

『自分たちの演奏はこんな感じ…という限界』

その殻を破る時がもたらされたのかもしれない。

この指揮者とともに。

団員の目の色が変わった。

それにいち早く気がついたのは、ずっと端で気をもんで見守っていたラドヴィックだった。

マエはまだかまわずしゃべり続けた。

「チャンスが何度も与えられるからといって安心などさせるつもりはありません。

あなたがただけでなく、外部からもオーディションを受けたいものは受け入れるつもりです。

現在団員だからといって、評価に加減はしません。

以上、質問はありますか?ないようなら練習を始めます。」



団員は一斉に、準備をはじめた。

前に立つのは、尊敬されるべき新しい指揮者だった。


 様子を伺っていたラドヴィックは、マエがこれほどあっさり皆を掌握するとは思っていなかった。

 


 

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