もう一度、『ベートーベンウイルス』…はじまりの交響曲14

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なし もう一度、『ベートーベンウイルス』…はじまりの交響曲14

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 | 投稿日時 2013/9/18 21:52 | 最終変更
hiroko  レギュラー   投稿数: 53
ミュンヘン

「先生、あの〜」
ラドヴィックが練習室を申し訳なさそうに覗いた。
マエが練習を中断されるのを一番嫌う。だが、急いで伝えたほうがよさそうな気がした。
「練習中です。後にして!」
案の定一喝されてしまった。でも…いいんですか…先生。ラドヴィックの顔がそう言っている。

ようやく、マエがでてきたのは2時間も経っていた。
「先生!」
気をもんでいたらしいラドヴィックは練習室の前をウロウロしていた。慌ててマエに駆け寄ってきて話し出す。
「カン先生。ベルナルド先生から連絡があって…」
「ベルナルド…」
ベルナルド・フォン・シューリヒト。
この老指揮者はマエや、ミョンファンの音大時代からの恩師にあたる。
厳格なことでも超有名な世界的指揮者だ。
「ミュンヘンに来ているので、先生にお会いになりたいそうです…」
マエの顔が見る見る険しくなり、ラドヴィックは勝手にオドオドしている。
『先生はウィーンじゃ?なぜ、ミュンヘンに?』
マエは眉をひそめた。
「いつ?何の用で?」ラドヴィックに尋ねても、歯切れが悪く埒が明かない。
ラドヴィックを問い詰めても何も解決しないと諦めて、背を向けて言った。
「急に来ていただいてもお相手が十分にできずに失礼をしては申し訳ない。
『残念ですが忙しい。取材に出ている』と断ってください。」
マエが言い終わるか終わらないうちに、視線の先に捕らえたのは、
こちらを鋭い眼光で見ている、年齢の割りに姿勢のよい老紳士。
「それがその…もういらっしゃっています…」
『もう、遅い。』マエはラドヴィックに心のうちで舌打ちした。
「カン・ゴヌ!居留守を使うとは何事か!」
銀色とみえるほどの白髪に、濃紺の三つ揃えのスーツを着こなすその恩師はすぐそばまで歩いてきた。
「とんでもありません。今から出るところだったのです。」
マエは今までのことがなかったように涼しく微笑んで直立した。
だが腹のなかではマエは思った。『なんて耳のいい老人だ。』

「そんな事だから、すぐオケともめるのだ。」老人とは思えぬ腹からでるよく通る声でしゃべる。
「失礼ですが、いつももめているとは限りません。」
「では、ソクランでは何日もったのだ?
君はだいたい学生の時から思っている以上に口が災いしている。コミュニケーション能力の欠如を改善すべきだ。少しは成長したまえ。」
「お言葉ですが、わたしの問題ばかりではありません。それに、ソクランでは半年はもちました。」
「それがなんだ。半年が最長とは。自慢にもならん。」
早口なマエにも間髪いれずにしゃべる。マエにとって唯一頭の上がらない、煙たい師匠であった。

『なんて、元気なんだ。』マエは思わず顔を背け心で呟いた。、その声をまるで読み取ったのか、
「カン・ゴヌ!君が煙たがろうと、近くに来たついでだ、今日は一度徹底的に話し合うのだ。その曲がった性格をどうにかせねばならん。何か対策を講じなければ。」
この老人の説教は夜中を越えるに違いない。
「いえ、先生。貴重なお時間をわたしごときのこんな些細な問題にさいていただくなどとんでもありません。お忙しいでしょう。」
マエは一生懸命逃げる口実を口にして、些細な抵抗を試みてみた。
「些細?わたしの生徒がオーケストラキラーなどと呼ばれる不名誉がかね?」
「いえ、もとい、先生のお名前に恥じぬようわたくしも日々十分努力しております。先生にご心配いただくなど心苦しく、もったいなくてできません。」
だが、その抵抗も徒労に終わるのだ。誰もこの頑固な老師を止められない。
『おせっかいな。老人は暇なのか?』マエはまた腹の中で呟く。

しかし、マエは煙たがってはいるが、この老指揮者だけが唯一、マエの尊大な態度にも変わらない姿勢で指導し、マエの実力を評価してくれた教授だった。
ルミが作曲を目指すと言い出したとき、マエが一番に意見を求めたのもこの老人だった…

二人は、食事を取るつもりで店に入ったが、マエは膨大な料理を前にして、少しつまんだだけでほとんど料理に手をつけることなくさんざん説教をされた。
そのかわり、ワインばかり流し込んでいたが、一向に酔わない。
しまいには恩師の『自分の若い頃はもっと団員の気持ちを掴んでいた』と、自慢話まで聞かされた。
まったく夕食が消化される気がしなかった。
ようやく解放されようとして、ほろ酔いの恩師をタクシーまで送った。
途中、老指揮者はマエに言った。
「少し前に、耳の悪い団員の相談を受けたから、少しは団員との関係がよいのかと思っておったのに。」
「…」
「結局、どうなったのだ?」
「彼女は今頃、能天気に、作曲の勉強をしているでしょう。図太く懲りない性格をしてますから。」
「ふん、珍しいな。お前が女性の話とはな。」
『しまった!余計なことを。』マエは恩師に聞こえないように舌うちをした。自分も少し酔っているのだ。口が滑った。
「案外、お前の音楽の感情面が豊かになったのはそのせいか。」
厳格な師匠も、お酒が入ってすこし砕けたものの言い方だった。
しかし、恩師の耳は確かだ。
マエ自身も感じていたが、すこし自分の音楽が変わった。だが、それを自分でも自然と受け入れられていた。それを再確認した。
「君にしても、ミョンファンにしても、いい年をして、家庭も持たずフラフラしおって。家庭を持つことがが必ずしも大切とは言わんが。
わたしが君たちの年には立派に家庭を築き、仕事も充実させておったぞ。それに、今でも一緒に食事をする女性には事欠かんぞ。」
『いつまで現役でいるつもりなんだ!』突っ込みたくなった。

だが、マエは思い出していた。マエはこの恩師が相当の愛妻家であったのを。そして、その奥様を亡くされた時を。
それは、まだマエたちが在学中のことだった。
葬儀のとき、奥様が亡くなった後を追ってしまうのではと、心配されるほどに落胆した恩師の後ろ姿。

しかし、みんなの心配をよそに、教授は翌週から普段と変わらず講義に出られた。
最初の授業でわれわれに語った話。あれは、オペラの講義の時だったか。
テーマは『愛』だった。
堅物の教授には珍しい話に驚いたのを思い出す。
「愛は必ずしも最初から存在しない。
一生、手に入れられない人もいるかもしれない。親子の愛ですら危ぶまれる世の中だ。
だが、愛は無くなったりはしない。
たとえ相手が亡くなったとしてもだ。死んでもなを愛していることに変わりがないのだから。
まあ、必ず一人にひとつとは限らんがな。世の中にはたくさん手に入れる人もあるだろうから。」
少し微笑んで教授は話し終わった。

『変わらず思い続ける…か』
思わず呟いたが、恩師は聞こえなかったのか、まださっきの続きを話ている。
「特に君は昔から恋愛を軽視している傾向が強い。
教えずとも、普通、豊かな感情こそ芸術を豊かにすることなど、とうに知っている年だろうに。まったく…」

「先生!お車です。」
車に乗せられようとしながら、まだ恩師は続けた。
「気づいているのだろう。カン・ゴヌ!変化を恐れるな。」
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